酔眼猛老

2013/2/26

成長につれて呼び名が変わる出世魚。切り身パックの養殖ブリも、モジャコ→ワカシ→イナダ→ワラサ→ブリという、ブリッコ出世双六(関東バージョン)では、一応「上がり」のポジションにいる。その塩焼きに、ひねればたちまち開くキャップシールの南米シャルドネを合わせれば、養殖餌のフィッシュミール(魚粉)がそこはかとなく香り立ち、ニッポンお魚事情が口中に広がる。

出世魚は、「上がり」が最高位に君臨しているわけではない。行きつく先、終着駅まで生き残ってしまうと、疎んじられ、おとしめられることも少なくない。その本家本元が、オボコ→スバシリ→イナ→ボラ→トドと名を変える鯔(ぼら)である。「上がり」のはずのトドだが、「トドのつまり」は価値なき役立たずとさげすまれる。

ボラは年ふりて、図体は大きくなるが、身は固くしこり、喉を突きさす小骨ばかりで調理に向かず、清濁併せ呑んで生き抜いたおかげで、身を噛めば泥臭い。網にかかっても畑の肥やしにと、廃棄物扱いだ。若魚のイナの背中は、河岸で働く粋な若い衆の上が平らな髷の形=「鯔背(イナセ)」と呼び、称揚するが、その鯔背も老いれば見向きもされない。

とどのつまりの巨大魚群、団塊の世代が、巷にあふれはじめている。身を粉にして高度成長を支え、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の日本経済を築いた団塊世代も、定年でリタイヤしたら、それはとどのつまり。医療・年金・介護で費用ばかりかかる金食い虫の厄介者扱いである。老いを迎えての無念の針のむしろだ。

猛老子は団塊の世代ではない。その1学年上だが、無念さは共有できる。税と福祉の一体改革などという、人より制度を大切にするお役人の掲げるキャッチフレーズの内実は、「年寄りは早めにあの世へ」という、身も蓋もない姥捨て論理のように、酔眼には映る。

出世を拒んで、ボラのままなら、トドのつまりの悲惨を味合わなくて済む、というわけにはいかない。出世とは自分では決められない、「世間の見る目」なのだ。本人はボラのつもりでも、老いれば、身も心もトドとみなされる。せめて頭の中だけでもボラでいようとすれば、そう、猛老子の如き立派な頭ボラ=ずぼらと化す。これ人の世の習いなり。

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